となりの爆豪さん

 1 |隣に引っ越してきた爆豪さんについて

都会に来て一人暮らしを始めて半年。とかく大きな夢を描いていたわけではないが、仕事も暮らしもぼちぼちといった感じで、独り身で気楽にのびのびと日々を過ごしている。同僚とたまには連れ立って出かけることもあるが、大体は家に居た。あまり遊び歩いて浪費したくないというのもあるが、電車にしても往来にしてもいつもどこかに人が居て、気が休まらないような気になるのだ。そのうち慣れるよと言われたけれど、半年経ってもやはり苦手だ。
そんな私が家に居て何をするかといえば、専ら新しい料理レシピの実践だ。安く買った食材を余すところなく使うべく、部位ごとに違う料理に使ったり、作り置きやリメイクをしたり。ダイエットや糖質制限を気にしているわけではないが、なんとなく突き詰めたくなって材料とカロリーもメモしている。そんなことに没頭するから、気がついたら夕方だということもよくある。
そんなインドアな日々を憂いて、友達は外に連れ出してくれる。ライブやイベントに誘われることもあるが、殆ど興味を示したことはなく、友達が楽しかった〜!と叫ぶのを見守る役である。たまにアイドルや俳優を見てかっこいいとは思うけれど、それだけだ。同僚の数人はヒーローに熱を上げていて、ラブレターを出すだのプレゼントを渡したいだの言っていたが、それもよく分からなかった。ヒーローもやはりかっこいいとは思うけれど、惚れたとか付き合いたいとかにはならない。だってそれは、いわゆる高嶺の花―別世界の人間あって、私の身の回りにいるような人ではないのだから。




「はいは〜い」
昼食のために冷蔵庫を覗いていた私は、来客のチャイムに元気よく返事した。時刻は11時過ぎた頃。誰だろ。この間通販を頼んだけれど、発送はもう少し先だった気がするし、新聞や宗教の押し売りなら…門前払いしよう。今更ながら、元気に返事をしてしまったのは失敗だったな。居留守が使えない。
リビングのドアホンで確認すると、真昼の風景の中に黒いキャップ、黒いサングラスに黒い服、背の高い男が一人立っていた。キャップからツンツンした金髪が僅かにはみ出し、サングラスから覗く鋭い目がこちらに向いていて、思わず画面から離れてしまった。あれ?めちゃくちゃ怪しい奴じゃないか?
いや、人を見た目で判断するのは良くないな。けれど用心だけはしておこう。意を決して、何の御用ですか?と聞いてみれば、彼は隣人だと言った。低く発した声は随分と若い。
「隣、越してきた。あんまり家には居ねぇけど、一応、挨拶」
「はぁ…」
ぶっきらぼうな口調と丁寧な行動がちぐはぐすぎて、なんだかぽかんとしてしまった。見た目警戒してしまって申し訳ないような気になってくる。挨拶に来てくれたのなら対面しなくては、と玄関に向かおうとした私を止めたのは彼の方だった。
「扉、開けなくてもいい。こっちも何か渡すようなモンは持ってねぇから」
「わざわざどうも…。えっと、じゃあお名前を聞いても?」
画面の中の彼が少しだけ躊躇うように、しかし、しっかりとした発音で答えた。
「爆豪」
ばくごうさん、と唇に乗せて言い返した。その爆豪さんは、何かじっと様子を見るように動かない。え、言い間違えてないよね?何か問題でも?内心ビビりながら彼の反応を待った。やや間をおいて、ドアホン越しに彼はポツリと。
「俺のこと知らねぇんか」
「ごめんなさい、初対面だと思うのですけど」
「…いや、知らなきゃいい」
ええ、何なんだ一体。気になるじゃないか。けれど深く追求するのも憚られたのでスルーすることにする。お返しに私の苗字も伝えると、彼はキャップのつばを正して去っていった。
びっくりした…。あの様子だと、お前のことは前世から知っている、などと言い始める怪しい宗教の人というわけでもないだろうに。何故自分を知らないかと聞いたんだろう。なんだか不思議な人。目つきは悪かったけど、多分怖い人ではなさそうだった。




次に爆豪さんに会ったのは、数日後のゴミ出しの日だった。マンションのゴミステーションにたどり着いた時、サングラスにスポーツウェアの爆豪さんがそこにいて、私に気づいて頭を下げてきた。慌ててこちらも頭を下げる。ドアホン越しでは分からなかったけれど、記憶より髪も肌も色素が薄かった。いっそ眩しいくらいに。
ぶっきらぼうな怖い人なのかなと思っていたけれど、意外と律儀だな。わりと普通に付き合っていけそうでホッとした。しかし。
現在の己の姿を見る。この日ほど寝起きのスウェットで出てしまったことを後悔したことはない。先週出し忘れた分も含めて、二つのゴミ袋を抱えている姿を見られてしまったのは、なかなかに失態だ。だってこっちは姿を見せるの初めてなのに!こんな格好で…!
そんな内心の焦りは頭の隅っこの方に寄せておいて。爆豪さんは入れ違いにこちらに歩き出していて、私は邪魔をしないように横に避けた。のだが、何故か大きな手が私に向けて差し出されていた。訳もわからずその手を見ていると、向こうは痺れを切らして言った。
「渡せ。入れっから」
「え、」
私が返事をするより先に、二つのゴミ袋が大きな手に攫われた。結構詰め込んであったのに、さすがに男の人だ。まるで空の袋のようにひょいと持ち上げてしまった。そのまま流れるようにスムーズに積まれるゴミ袋を呆然と見遣る。ゴミステーションの扉に錠がかけられて、ようやく口だけが動いた。
「あ、ありがとうございます…」
「ついでだわ。あんた、隣の人だろ」
「そうです。すみません、初めてお会いするのにこんな格好で…」
「別に。普通」
言葉は乱雑なのに、優しい。いやぁ、いい隣人すぎる。都会にきて出会いに恵まれてるなぁ、なんて。うっかりほろりと涙しそうになった。
しかし、私の目の前で立ち止まった爆豪さんは、じっとこちらを見ている。えっと、何だろう。
「…本当に俺のこと知らねぇんだな」
「えっと…ごめんなさい」
素直に謝ったけれど、謝る必要があったかは疑問だ。知らないものは知らないのだから。見た目からするに、俳優かミュージシャンなんだろうか。同僚が黄色い悲鳴を上げそうな、かっこいい部類だもんな。いや、ガタイがいいからスポーツ選手?モデルの線もあるな。
しかし、世間へのアンテナがとても低い私には、どんなに考えても分かるわけがなかった。
「うちテレビとかないし、雑誌もあんまり見ないんで…。有名人さんなんですか?」
「…いや」
いやって、違うの?じっとこちらを見ていた目が、ふいと逸らされて離れていく。それきり、爆豪さんはぶっきらぼうな返事を置いて、敷地の外の方へと出て行ってしまった。あ、やっぱり走りに行くんだ。彼の走っていく背中を見送っていると、なんだか清々しい気持ちになった。真面目で健康的だなぁ。私もなんか運動した方がいいかな。
…いや、その前に着替えだな。今度会った時に気を使わせてはなるまいと、よれたスウェットも買い換えようと心に決めた。




「ねぇねぇ!ダイナマイトの雑誌見た!?」
「見た見た!もー、あの背中!腕!めちゃくちゃカッコよかった!」
「はぁ、あんたら…こないだはショートだって言ってなかった?」
「ショートは別腹ですぅ〜!」
昼休みのデスク周りは賑やかだ。同僚の3人と一緒に昼食を食べるのが、いつのまにかお決まりになっていた。きゃあきゃあと騒ぐ2人はヒーローのファンらしい。らしい、というのは私がヒーローに興味がないから、出てくる固有名詞に確信が持てないからだ。そこを補ってくれるのが、もう1人の同僚。彼女は2人とは違い、ヒーローは知っているもののそれ程熱を上げる対象ではないようだ。
「ねー、ほんと見てよ!こんな男いる?ってレベルのカッコ良さだからさぁ!」
「そうそう!」
「でもさー、ダイナマイトっしょ?性格最悪じゃん」
「そこがいいの!!」
性格が悪くてもヒーローになれるのか…。うーん、今日も会話についていけないな。サラダをもさもさと咀嚼しながら、3人の会話を見守る。ショート、というのは確か先週聞いた気がする。その時も2人はカッコいいと熱弁し、別の1人が天然すぎるのはねぇ、と呆れていた。ヒーローという職業は知っているが、彼女らの熱の上げ方はアイドルに対するものに似ているなと思った。
「あんた、ホントにヒーローに興味ないのね」
呆れ役の彼女が私に向けて言った。他の2人も続くようにこちらを向く。
「マジで1人も知らないの?」
「オールマイトくらいなら分かるよ」
「いやそれレジェンドだし。むしろそれ知らなかったらやばいレベルだし」
三者三様の呆れ顔をされてしまったが、興味のないものは仕方がないじゃないか。だってヒーローなんて高嶺の花。私みたいな一般人がお世話になることなんて、一生に一度あればいいくらいじゃないの?つまりは住む世界が違う。だからそこに労力をかけることが分からないのだが。
「イケメンは目の保養だし」
「めちゃくちゃ心の支えなんですよ」
「私はテイルマンの方が好み」
同僚の主張を聞き流しながら、弁当の箱を閉じる。
「ねぇ聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
「絶対聞いてないじゃん、も~」
それよかコンビニのスイーツ、今日の新発売気になってるんだけど買いに行かない?と言えば、全員が全員「行く!」と声を上げた。




電車に揺られ、マンションに着いて、時計を見れば21時過ぎ。久しぶりに残業したなぁ。空腹のために思考はダダ下がり。電車の中で腹の虫が鳴きださなかったのは奇跡に近い。
エレベーターのボタンを押すと、ランプは最上階を指していた。早く帰りたい時に限ってこうなんだよね。じっと箱が降りてくるのを待つしかない。
気晴らしにスマホを弄っていると、背後に人の気配。重い靴の音からして男性だろう。盗み見るようにちらりと視線を向ければ、そこにいたのは。
「あ、こんばんは」
「…っす」
黒いブルゾンとキャップ、サングラスを纏った爆豪さんがそこにいた。思わず声をかけてしまったが、向こうもちゃんと返してくれた。そんなささやかなコミュニケーションがなんだか嬉しい。
ポン、と軽い音がしてエレベーターが到着した。私が先に、彼が続いて乗り込み、ボタンを押そうと伸びた手は中途半端に上がっただけだった。先に彼の長い腕が閉じるボタンに伸びていたからだ。
「ありがとうございます。お仕事帰りですか?」
「おう」
「私もです。もうお腹ぺこぺこで、」
そこで電車でも鳴らなかった腹の虫が急に自己主張するのだから、タイミングとは恐ろしいものだ。ぐうう、という音は確実に私から発せられていて、そしてここは音がよく聞こえるエレベーターの密室で。確実に聞こえただろう爆豪さんがじっと私を見ている。まぁそうなりますよね。タイミングってありますよね。これじゃ私が食い意地張ってるみたいじゃないか…!恥ずかしい!
「…、いや、あの、」
兎にも角にも羞恥心が勝り、密室の隅で縮こまりながら何か弁解をしなくてはと言葉を募った矢先。今度は私ではない腹の虫が鳴いた。私でなかったらそう、目の前の爆豪さんだ。
こちらを見ていた目が気まずそうに逸らされて、私もなんだか居たたまれなくなって別の方を向いた。全部空腹のせいだ。お腹が空くなんてろくなことじゃない。でも食べないと生きていけない。人間て不便だ。
無言のままエレベーターは目的の階に止まり、爆豪さんの後に続いて私も降りた。そこでまたお腹が鳴るのだから、恥ずかしいなんてもんじゃない。いや、いまのは本当に私の方?前を行く爆豪さんの方じゃなくて?
「あの」
「ア?」
「ラーメン、食べに行きません?」
いや何言ってるんだ私。空腹でとうとう頭がおかしくなったのか。けれど一度出てしまった言葉を取り消すことなど出来ず、更に言ってしまったことにより口が猛烈にラーメンを欲した。あぁ、だめだ。めちゃくちゃお腹すいてきた。
爆豪さんの切れ長な目が、サングラス越しにじいっと私を見ていた。変な女だと思われただろうなぁ。でもお腹すいてんだからしょうがないよ。大丈夫、断られても一人で行きますし。
「坦々はあんのか」
ところが、意外にも彼は乗り気のようだった。お腹が空いてるんだろうな。わかりますよ。
「あります。中華のとこなんで」
「…行く。下で待ち合わせでいいか」
「はい。荷物置いてきますね」
ささっと別れると、部屋の鍵を開け、仕事用の鞄を玄関に置く。ちょっと出るくらいだからお財布とスマホだけでいいな。上着のポケットに小銭入れを突っ込んで部屋を出た。




「ここです」
歩いて10分程、細い道に入った所にあるその店は赤い暖簾が目印だ。店内に入れば、中華特有の美味しそうな匂いが充満している。
「おじさん、奥の所空いてます?」
「おう。今空いたとこだよ」
「ありがとうございます」
店の一番奥まった席は、衝立もあって人目が気にならない。後ろについてきた彼は何も言わなかったけれど、ここに来るまでもサングラスとキャップを取らなかった。いつも徹底して外見を紛らわすのには訳があるのだろう。その辺りに一応配慮したつもりだ。爆豪さんからも抗議的なものはなかったから、それでいいのだろう。
テーブルについて、メニューを開く。もうお腹が空きまくっているから、少しボリュームのあるものでもいいな。チャーハンつきにしよう。
早々に注文を決めて待っていると、対面に座っている爆豪さんが唐辛子のイラストの図を指して聞いてきた。
いつのまにかサングラスを外し、その整った顔を晒している。フェイスライン、鼻筋、顔のパーツのひとつさえ、私とは違う世界の人間のように完璧だった。あぁ、やっぱり雑誌モデルの人なのかもしれない。あまり表紙ので雑誌を選ばない私でさえ、気になって手を伸ばしてしまいそうな、そんなオーラさえあるのだから。
「これ、辛さ選べんのか」
そんな彼から発せられる言語が一瞬理解できず、ワンテンポ遅れてしまったのは仕方ないと思う。
「そうですね。でも、普通の辛さでもここのは辛いってらしいですよ」
「フーン」
さっきから赤いメニューのところばかり見ている。担々って言ってたし、辛いの好きなんだな。決まった、と彼が発するまでぼうっとそれを眺めていた。
「オーダーいいですか〜?」
「あいよう!」
「野菜ラーメンに味玉、半チャーハンで」
「担々麺、一番辛いやつ。あと麻婆丼」
私と爆豪さんのオーダーを繰り返し、おじさんの威勢のいい返事が返ってくる。
「一番辛いのなんて、チャレンジャーですね」
「あんたも見た目の割に食うじゃねぇか」
「お腹すいてんですよ」
「ハ、あれ聞いたら分かるわ」
「もう、それは、忘れてください」
密室での腹の虫合戦など、後にも先にもあれきりにしたい。しかし、それを阻止するために間食はしたくはない。
爆豪さんは閉じかけたメニューをまた見ている。相変わらず赤いページを。意外と話しやすくて、いい人だ。改めてそう思う。
店の角にあるテレビからは野球中継の音声が聞こえる。どんぶりを出す音、中華鍋を振るう音、炒め物の音。そして美味しそうな匂い。
「インスタなんたらの店に連れてかれると思っとったが、わりとまともだな」
音と匂いに気を取られている間に、メニューをテーブルの隅に片付けた爆豪さんがぽそりと言った。辣油のような艶々とした赤い目から、何故か目が離せない。
「オシャレなとこは苦手なんですよ。それより、美味しいものを人目気にせず一杯食べたい派なんで」
「俺は居て良かったんかよ」
「空腹同盟ですから」
「ンだそりゃ」
ふ、と笑うのには、少しドキッとしてしまった。その顔で笑うの、ズルくないですか。同僚がカッコいい男を見て騒ぐ気持ちが今なら分かる。
「ここ、よく来ンのかよ」
「そうですね、仕事忙しい時はたまに。自炊は好きですけど、残業してからは何もしたくないですし」
「…まーな」
そこで同意を頂けるとは思わなかった。
「爆豪さんて、自炊されるんですね」
「あ?」
「あっ、いや、変な意味じゃなくて。外でご飯済ませそうなイメージでしたので」
「そりゃそっちの妄想だろ。飯くらい作るわ」
「ですか…スミマセン」
確かに、勝手に多忙だと決めつけてしまったのは申し訳ない。ぺこりと頭を下げかけた時。
「つーか、そンなら」
「うん?」
「アンタの方が自炊すんのか怪しいもんだわな」
「えっ、なんでですか。しますよ」
「ゴミ袋二つ、スウェット。『そういうイメージ』だろうが。分かったかよ」
「うっ…」
よりにもよって、あの朝のことを蒸し返されるとは思わなかった。確かに、ちょっとズボラすぎたとは反省している。
「爆豪さんて、ちょっと意地悪ですね」
「ハ、褒め言葉として受け取っとくわ」
「それは流石にポジティブすぎません?」
「慣れてンだよ。そういう罵詈雑言にはな」
「罵詈雑言て。…あ、もしかして!」
「ア?」
「悪役の人ですか?」
「は?」
訳がわからん、そんな声が聞こえそうな顔だった。目を丸くした彼を他所に、私はまくし立てるように持論を垂れ流す。
「爆豪さんの仕事、ドラマの悪役じゃないですか?人目を気にするくらい有名人で、罵詈雑言に慣れてる。ちょっと派手な感じが…こう、歌舞伎街の裏のドンみたいな」
「ちげぇ」
「ちょっとくらい掠っては…」
「ねぇ」
「そっかぁ…」
ちょっと自信あったんだけどな。でも、不機嫌そうな爆豪さんの顔を見るに、全然違う仕事をしているのだろう。 「へい、お待ち!」
その時、ちょうどオーダーしたメニューが運ばれてきた。卓上に次々料理が並んでいくと、意識は完全にそっちに向いてしまう。空腹なので仕方がないことだが。ゴマ油の匂いに神経が侵食されればひとたまりもない。
今まで話していたことなど忘れて、手を合わせて、いただきます。流れるように割り箸を割った。対面の爆豪さんも挨拶こそおざなりだったが同じようにしていた。
そこからはもう、夢中でかき込んだ。空きっ腹がどんどん満ちていくのはいつも快感だ。食べ物はこんなに心を満たしてくれる。素晴らしい。




店を出ると、ひんやりした夜風が肌を撫でた。来た時と同じ道を連れ立って歩く。爆豪さんは少し後ろからついてきていた。
「そういえば、会計の後、おじさんに呼び止められてましたね。何かあったんですか?」
「…別に。辛さがどうとか言っとったが」
「あのメニュー、お店で一番辛いやつなんですよ。きっと爆豪さんが普通に食べ終わっちゃったんで、対抗意識が芽生えたのかも。次なるレベルのメニューが出来るかもですね!」
「ハ、かもな」
マンションまであと少し、という所。虫の声だけの世界に、不意に着信音が響いた。聞き覚えのない音だったから、私のスマホではない。
「…俺だ」
振り向くと爆豪さんが誰かと通話していた。お仕事の電話だろうか。私も足を止め、彼の通話が終わるのを待った。場所は、人数は、など、短い単語だけが聞こえる。通話は十数秒くらいで終わった。
「お仕事ですか?こんな時間に大変ですね」
「ン、今から出なきゃなんねぇ。じゃあな、」
それだけ言うと、爆豪さんは元来た道を走っていった。黒いシルエットはあっという間に見えなくなってしまう。その背に手を振っていた私も、姿が見えなくなってからようやくマンションに足を向けた。
仕事終わったばかりだったろうに、電話一本でいつでも駆けつけなきゃいけないのか。大変だなぁ。夕飯食べたばかりであんなに走って大丈夫なんだろうか。なんて、余計なお世話な心配ばかりしてしまう。
それでも、家に帰れば満腹になった私はすややかに就寝するだけだったのだけど。

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