「ねぇ、あんた最近太った?」
それは、今まさにオニオンリングを食べようとしていた私に向けられた一言だった。発した同僚は既に弁当を空にしていて、私が食べ終えるのを待っていた。そう、そんな同僚からのお言葉である。
オニオンリングに向けられていた私の思考は随分と時間をかけてその言葉を理解した。「あんた太った?」である。
「……私のことだよね?」
「私とあんたしか居ないわよ」
分かってるよ。これは大事な確認作業なの。
さて。ここで「失礼だな!」と憤るはずのところ、私の心に浮かんだのは「心当たりがありすぎる」だった。そっと食べかけたオニオンリングを弁当箱に寝かせる。残しはしない。クールタイムだ、クールタイム。
そして肝心の心当たりというのは、最近の食生活のことだ。家で食べる時はカロリー計算やらもしていたが、爆豪さんと夕飯を共にするようになってからは、好きなものを好きなだけ食べていた。一緒の夕飯が楽しいからというのも勿論あるが、一番の要因は出会い頭にお腹を鳴らさないようにするためだった。
爆豪さんも何やら私の顔を見るとお腹が空くと言っていたが、私の方だって爆豪さんと会うと高頻度で腹の虫が鳴いてしまうのだ。本当に何故だか分からないが。
これをなんとか阻止するべく、今までしていなかった間食もしたし、お腹に溜まるような食事に変えたりもした。それが効果的だったかは分からないが、最近は以前のような失態は犯さなくなった。
しかし、その結果として体重がプラスになっていたとしたら。あぁ、冷や汗が噴き出てきた。
「そ、そんな分かっちゃうもの?」
「頬の線が丸いのよ」
一撃必殺。なるほど、致命的である。一刻の猶予もなく。と、半ば茫然としつつもオニオンリングはしっかり無意識のうちに口に運ばれたので、自分の食い意地に猛省するばかりであった。
それでもまぁ、やはりというか何というか。私は今日も今日とてホイホイと夕食のお誘いについて行ってしまうのである。断れない理由が食い意地だけではないのはそろそろ自覚していた。
本日も爆豪さんは辛いメニューを頼んでいた。彼が食べていると辛そうに見えないから不思議だ。実際には罰ゲームかと思われるほどの辛さだというのに(実際に食べたことはないから、これはメニュー表の唐辛子マークの多さからの憶測である)。
その赤いスープだって絶対トマトじゃないんだよな。唐辛子か豆板醤かラー油か、そういう類のものなんだろう。だって匂いだけなら美味しそうと錯覚してしまうくらいには──
「食欲無ぇンか」
「…え、あ、」
いつの間にかこちらを見ていた彼と目が合った。ずっと見ていたから、向こうも不審に思っただろう。恥ずかしくて誤魔化すようにチャーハンを掬った。食欲はありまくります。ありまくるので困ってます。残念ながらサラダやもやしだけで生きられる人間ではないので。
しかしぼんやりと、チャーハンの具を確認してしまう。ベーコン、ベーコンか…脂身だなぁ…なんてカロリーのことも考えてしまう。
どうしよう。
箸が進まないのを不審に思ったのか、爆豪さんが手を止め口を開く。
「具合悪ィなら言っとけや」
「すみません、そういうわけではないんですけど…」
「ア?」
「あの、その、ちょっと、ダイエット、を…」
こちらを見ている爆豪さんが少し驚いたような顔をした。あぁ、やっぱり言わなきゃよかった。さすがに店に来てから言うことではなかった。
「マジで具合悪いわけじゃねンだな」
「そうです…脂質とかが気になるだけで…」
やはりチャーハンはやめとくべきだったか。でも野菜ラーメンだって野菜と銘打ってるだけで大概でしょ。ここの背脂マシマシだし。
しかしなんだかんだ言っても箸をすすめてしまうのが私なので。チャーハンのあと、無意識のうちにエビチリを頼んで平らげていた。対面に居る爆豪さんの心配(?)するような目がいつしか呆れ顔になったのを見て、正直やってしまったと思った。
夜道を二人で歩く。こんな都会でも、どこからか虫の鳴く声がする。
「意外だわ」
「ん?」
「あんた外ヅラ気にすンのか」
「今、めちゃくちゃ失礼なこと言いました?」
「そォだな」
「正直…」
しかし、それは私も思っていたことだった。今まで最低限の身なりにはしていたが、誰かに言われて自分を変えようと思ったのは初めてだった。変えなければならないと危機感を持ったのは確かだが、果たしてそれは誰のためなのか。
前ゆく爆豪さんの背を眺める。
今はまだ冗談混じりの話題にできるけど、彼には彼には見放されたくないなぁと思う。とびきりの美人ではないし、体型が良いわけでもない。一緒に居る時に見劣りする存在だろうけど、せめて胸を張れるような自分のままでいたい。
「オイ」
呼ばれて顔を上げた。いつのまにか爆豪さんが振り向いてこちらを見ていた。なんだろ。
「道、変えンぞ」
「は、はい」
言うが早いか、彼は先に歩き出した。言われるがままに彼について横道を進んだ。
真っ直ぐ帰れば最短ルートなのだが、寄り道だろうか。私自身、あまり通ったことのない場所だった。爆豪さんが言うのだから近道か何かかなとも思ったのだが、先に見えてきた光景に焦りを感じる。
石段だ。それも結構な勾配、先が見えない長さの。こういうの、体育系の部活がトレーニングに使うよね、みたいな。
「はよ来い」
先行く爆豪さんは何でもないようにすたすたと進んでいってしまった。…嘘でしょ、これ登るの?私も置いていかれないように石段を踏みしめていくが、かなりキツい。こんなに階段を登るの、マンションのエレベーターが点検の時くらいしかない。弱音はすぐに出た。
「ま、待ってくださいよぉ」
「遅ぇ…」
私が息を切らせてやっと登っていくのを、爆豪さんは上の方から見ている。ぼんやりとした街灯の灯りでは表情は読めないが、どうやら助けてはもらえないらしい。さすがに今更元の道に戻るのも不可能なので、進むしかない。ないのだが。
「はよしろ。あと3秒待つ」
「お、鬼だぁ…」
それは待つうちに入らないです。階段に申し訳程度に添えられている手すりにへばりつきながら、精一杯足を上げた。一段登るごとにもう無理と呟く。ゴールはまだ遠い。
結局、登りきるまで爆豪さんからのアシストは一切なかった。汗だく息も絶え絶えの私は子鹿のように足を振るわせて動けずにいた。一体この仕打ちはなんなんだ。
かろうじて顔を上げると、爆豪さんはガードレールに座って電話していた。あー、また仕事のお呼び出しなのかな。込み入った話なのか、暫く通話は終わりそうにない。私も動けそうにないけど。
少し息を整えてから辺りを見回す。いつも歩く住宅街とは違い、街路樹と街灯がぽつぽつ並んでいるだけの宅地開拓区画のようで、人気も見覚えもない場所だった。こんなところあったんだ。
じゃあな、と通話を終えた爆豪さんが私を見た。
「やっと着いたんか」
「やっと着きましたよ」
「全然登って来ねぇからほっといて帰ろうかと思っとったわ」
「えっ…酷くないですか?」
「マジで帰ンぞ」
「わっ!待って待ってください!ここどこだか分かんないんですって!」
また先に歩き出してしまいそうな爆豪さんの服を咄嗟に掴んだ。こんなところに置いて行かれたら困る。先導したのは彼なのだし、一緒にマンションまで行ってもらわなくては。
そもそも何故こんな遠回りをしたんだろう。急勾配を登ってきたが特にいい景色というわけでもなく、寄り道するにも店らしきものもないのに。
「少しはいい運動になったろうが」
「…うん?」
彼の意図が掴めずに聞き返すと、面倒くさそうながらもこの状況の説明をくれた。
「さっきの飯分くらいは浮くんじゃねぇの」
「…はぁ、」
なるほど。どうやら爆豪さんは私が先程カロリーを気にしているのを汲んで、このような暴挙に出たらしい。
「あんた全然運動しなさそうだしな」
「確かにしないですけど…ほっといてくださいよ」
「フーン。んじゃ放っとくわ」
「えっ、あっ、いやいやいや放って行かないでください!」
私のダイエットの意を汲んでくれたことは嬉しい。嬉しいのだが、それはそれとして私生活を見透かされたような気がして居た堪れない。…気を遣わせてしまった。
放っておくとは言いつつも爆豪さんの歩調は緩やかで、意地悪なんだか優しいんだか分からない。
いや、優しいのだ。私はそれを知っている。
なだらかな坂を降りた先、高架下の道との交差点に差し掛かった時。向こうから男が一人歩いてきた。コンビニの袋を下げた男は知らない顔だ。このまますれ違うものと思われた。
しかし、男が何かに気づいたようにこちらに近寄ってくる。その表情から悪い予感しかしない。私が避けるように動くより先に、爆豪さんが男との間に入っていた。男は気にせず、爆豪さんに向かって言葉を発した。
「なぁ、お前、知ってるぞ。有名な奴だよな。最近しゃしゃり出てきてよ、順位上げていい気になってんだろ」
男はそう言い放った。爆豪さんがリアクションを返さないところを見るに知り合いでは無いのだろうが、向こうは爆豪さんを知っている口ぶりでなおも続けた。その表情はやはりいいものではない。
「女侍らせていい気なもんだな。丁度いいわ、金貸してくれよ、なぁ。高額納税者だろ?」
知り合いであったとしても無視を決めたくなるような横暴な態度はなおも続く。無視し続けている爆豪さんは、こちらに目だけで『相手にするな』と訴えかけてきた。そりゃ、関わりたくないですけども…。
「おい無視かよ、テメェのことネットで言いふらすぞ。一般市民の声に耳を貸さない最低野郎ってな」
男が下衆な笑いを浮かべながら挑発してきた。爆豪さんは何事もないように、
「どうぞご勝手に。暇じゃねーんでシツレイシマス」
平坦な口調でそう言った。私の手を引き、そこから立ち去ろうとする。
しつこい男はなおも続け、酷い言葉を投げつけている。聞くに耐えないような話を延々と。
爆豪さんは終始冷静だった。そのままやり過ごすことだって出来たのに。冷静でいられなかったのは、私の方だった。
爆豪さんのこと、何も知らないくせに。
ふつふつと湧き上がる怒り。思わず手に力が入る。無遠慮な言葉を遮るように、男に向かって言ってやった。
「私はあなたより爆豪さんのことを知ってます。だから、言います。あなたみたいな人に爆豪さんを貶す権利はないです!」
口をついて出たのはそんな言葉だった。本当に腹が立ったのだ。何なんだこの人。
と、言ってしまったがために、その後どうなるかまで考えてはいなかった。
「アァ!?何だとテメェ!」
顔を真っ赤にし、鼻息荒く激昂した男は拳を振り上げた。ヤバい、と思ったが完全に手遅れである。
どうにか迫り来る暴力に備えようと身を屈めてバッグで頭を防御した。たんこぶ確定だ…いやたんこぶで済めばいいな…。意外と冷静な自分に呆れもした。
ガッと何かがぶつかる音がした。が、衝撃はいつまでもやって来ない。あまりの痛さにその場で気を失ったかな?と馬鹿なとこを思ったりもした。
しかし現実はそうではなかった。
「自分の勝てる相手にだけ手ェ出して満足かよ」
静かな、低い爆豪さんの声。恐る恐る顔を上げると、目の前に大きな彼の背中があった。その向こうに怯む男の姿も。
庇われたのだと気が付いたのは、男が小さく悲鳴を上げて逃げ去ってからだった。喚くような声がどんどん遠くなる。何を言っているのかは全くわからなかったが。
輩の姿が見えなくなってから、爆豪さんが長いため息を漏らした。
「普段ボケっとしてる癖に変なとこで突っかかってくよな、あんた」
「え、あ、」
そうだ、喧嘩を買ってしまったのは私だ。爆豪さんは冷静にやり過ごそうとしていたのに。でも、どう考えても向こうが悪い。
憤りはまだ消えなかったが、それよりも振り向いた爆豪さんの顔にギョッとしてしまった。
「血が、」
「ア?あー…」
暗い街灯の灯の下でもハッキリと見えてしまった。頬に生々しい痣、筋の通った鼻から血が出ている。紛れもなく、私の代わりに殴られたからだった。
爆豪さんは垂れた血をぞんざいに拭うと「平気だわ」と言う。見るからに痛々しいし、放っておいたら絶対に腫れるであろうに『平気』はないでしょ。
「慣れてんだよ、こんくらい」
さも何でもなさそうに彼は言った。
慣れている。
いつだったかも同じことを言っていた。『罵詈雑言』に『慣れている』と。それは先程の男の言ったようなことだろうか。ただ有名人というだけで、そんなことに慣れなければいけないのだろうか。
そんなの。
「っ、…帰りましょう、手当てしますから」
「いらね、」
「いります」
被せるように強引に言った。もはや意地である。爆豪さんはそれ以上何も言わなかった。
しかし私は帰る道を知らない。先んじて道を行き曲がり角で違う方向へ進もうとしたところを引っ掴まれ、結局爆豪さんに先導されながらマンションへと帰った。
エレベーターを降り、そのまま自分の部屋へと向かおうとした爆豪さんの腕を捕まえる。絶対にこのまま帰してはだめだ。まだお礼だって言ってないのに。そう思って必死にしがみついた。彼はため息を漏らしながらも、私が諦めないと悟ったのかこちらに向き直って言った。
「なんか冷やすモン持ってこい」
「わかりました」
素早く部屋の開錠をし、玄関先に爆豪さんを待たせて台所へ向かった。肩掛けバッグはソファに投げ捨てて、冷凍庫に突っ込んであった保冷剤を取り出してタオルで巻く。また急いで玄関に戻った。
爆豪さんはちゃんとそこに居てくれた。
手を伸ばしてそっと頬に触れた時、少しだけ眉間の皺が深くなった。やっぱり痛いんだ。とても心苦しくなったが、彼にもちゃんと痛覚があることに安心してしまった。
相手の方が一歩引き、私の手から保冷剤を奪っていった。
「ごめんなさい、痛かったですか?」
「痛くねぇ」
「いや、それは嘘でしょ…」
「痛くねぇっつってんだろ」
「えぇ…」
爆豪さんは頑として譲らなかった。痛いと言ったら負けの罰ゲームでもしているかのように。明らかに嘘だと分かったが、それ以上言うのはやめた。きっと肯定することもないだろう。
沈黙の中、保冷剤を頬に当てながらどこかを見ていた彼が、ぽつりと零す。
「別にあんたが怪我したわけじゃねーだろうが」
赤い目が静かにこちらを見た。気にするな、と言われている気がした。
「代わりに、爆豪さんが怪我したじゃないですか」
一字一句、確かめるように言った。伝わってほしいと願った。
「だから、苦しいし、辛いです。あんなこと言われるのも、殴られるのだって…慣れてるなんて、」
そんなこと言って欲しくなかった。言わせてしまった。爆豪さんがどんな仕事であんな非道に慣れているのかは知らないが、私はそんなことには慣れていない。普通に驚くし、辛いし、泣きたい。そんな仕事なんて。
「言っとくが悪役プロレスラーじゃねェかんな」
「…違うんですか」
「違ぇわ」
やっぱり分からない。でも爆豪さんは仕事を生きがいにしているようなので、私が口出しできることでもない。やめてほしいなんて言えるはずもない。ただの隣人なのだから。
「爆豪さん」
「ンだよ」
「救けてくれて、ありがとうございます。本当にいつも、ありがとうございます」
「…おー」
ただ助けてくれた爆豪さんにお礼を言うしかない。私ができるのはそれくらいだった。
いくらか落ち着いた頃、爆豪さんは「帰る」と保冷剤を返してきた。いくらかぬるくなってしまったそれを受け取り、おやすみなさいと返事した。
「あんた、男に対してもっと危機感持っといた方がいいンじゃねぇの」
確かにそうだな、と思った。自分でも驚くほど頭に血が上って状況が見えていなかった。深く反省するところである。爆豪さんの顔を見ると余計にそう思うしかなかった。
「…そうですね。売られた喧嘩を買うようなことはもうしません」
「ちげぇ。そっちじゃねぇ」
はて、そっちとは。あれ、さっきの売り言葉に買い言葉を咎められたんじゃなかったのかな。何も思い至らず呆けていると、爆豪さんは呆れたように続けた。
「俺も男なんだわ」
「…そうですね?」
「…わかんねぇんかよ」
「ええと…?」
「一人暮らししてる身で男をホイホイ家に入れンなっつっとんだわ」
あっ、なるほど。合点がいって思わず手を叩くと、赤い目がじっとりと細められた。うっ…これはきっと馬鹿にしてる目だ。
「そうですね。さっきみたいな人もいるかもしれないですし、気をつけます」
「そうしろ」
「でも、爆豪さんは信用してるので大丈夫ですよ」
私だって見知らぬ人をあげたりはしない。宅配やセールスにだって警戒する。隣に住むよく知った爆豪さんだからこそ、こんなに気を許してしまっているのだ。だから心配ご無用です!
そう意気込んで言ってみたのだが、爆豪さんのリアクションは薄い。というか、前に私が絶賛してお裾分けした甘味を一口食べた時のような苦い顔をしていた。あの時は本当に申し訳ないことをしてしまったな。甘いものが苦手なら先に言って欲しかった。
そのなんとも言えない表情のままの爆豪さんは、去り際に一言。
「そういう無自覚なとこもどうにかしろ」
え、ええ?待って。今のどこが駄目だったんですか?聞く間もなくドアは閉じられた。
彼が去ってしんとした玄関。結局、表情の真意も言葉の意味も分からぬままだ。柔らかくなった保冷剤を手に、暫く悶々とした。
その日は慣れない運動をしたせいか、いつもよりストンと眠りに落ちた。