ガーネットの献身

 4 |あなたが来てくれるから

生ぬるい風が下から頬を撫でてくる。それに気づいて意識が浮上し、覚醒した。起きようとした身体は鉛のように重くて動かない。やっとのことで瞼を押し上げても、辺りは暗い闇の中。何も見えなかった。
あれ、私、どうしたんだっけ。
肩のあたりと、腰、それから腿。他の部分が地に接する感覚がない。寝相にしては不安定な格好で目覚めたことにも違和感を覚えた。それに、どうしてこんなにあちこち痛いんだろう。
また風が下から上へと流れる。不思議な感覚。まるで、狩りの時に空中にいるみたいな。
「……そうだ、」
私、地面の裂け目に落ちたんだ。
気を失う前の行動を思い出す。ミモザを探しに緑谷に教えてもらった場所へと赴き、そして不注意から大地の裂け目へと落ちる。我ながら泣きたくなるくらい馬鹿な顛末だ。そして今更取り消すことだってできない。どうにか運良く出っ張った木の根か岩に引っかかっているらしい、というだけで、状況は最悪以外の何物でもない。迂闊に動くことすら出来ないのだから。
自力ではもうこの場にいかに止まるかくらいしかできることは無いだろう。ほとんど手ぶらで来てしまったから、使えそうなものもない。不安定な体勢から動くのもやっとでは、縄だって役に立たないかもしれないが。
街から外れたこの辺りは街道から遠く、人通りも望めない。もし居たところで、人目を忍んだ蛮族や後ろ暗い者だったら見捨てられるだろう。
今は夜なんだろうか。それとも、光も届かないくらい深いところまで落ちてしまったのか。どちらにしても、いま生きている事が奇跡だと思った。けれど、それがいいことだと喜べるような状況ではない。
狩りの時に空中に投げ出されるのとは比べ物にならない程の絶望感。だって、ここには私しかいない。下から掬い上げるように拾ってくれる爆豪がいない。鞍から身を投げ出す馬鹿と罵る爆豪がいない。私、しか。
「爆豪、」
怖くなった。いつもはどんなに空を飛んでも怖くなかったのに。一人だけで、誰にも知られないところで死んでしまうんだ。そう思ってしまったら、余計に心は竦んだ。
「ばくごう、」
もし、私が居なくなったら。彼はもう私の家に来ることもなくなるのだろうか。一つのベッドの占有権を争うことも、ない。何も。こんな時に彼との些細な争いを思い出すのも可笑しな話ではあったが、どうにかこの現実から目を逸らして逃避したかった。

「爆豪、」

たすけて。




また気を失っていたのか、次に覚醒した時には淡く岩肌を照らす光が射していた。思考は鈍く、時間の経過は分からなかった。もしかしたら、気を失っている間に数日経っていたのかもしれない。
相変わらず人の気配も、生き物の気配すら感じられない。人が来た時のために体力を温存しようと思っていたが、その体力すら徐々に失いつつある。空腹を知らせる腹の虫さえ鳴らなくなってきた。そんな私の耳に、声が届く。
グォーン。遥か遠く、竜の鳴く声が聞こえた。もしかしたら幻聴だったかもしれない。けれど、自然とその声に耳をすました。一度、二度、三度と繰り返される声。何かを探すように、あちらへこちらへと移動しているような。
狩りに出た者たちか。上を向き空を見上げればその姿が見られるだろうか。けれど、やはり不安定な場所で動くのは怖かった。また、竜の声。
怒っているような、泣いているような。竜の小間使いをして、少しだけ竜の感情が分かるようになった。静かに起こっている時、ピリピリとした雰囲気を感じたり、機嫌のいい時は鼻を鳴らす。そして、竜族の者は感情が昂ぶると人間の言葉を扱わなくなることも。その点、爆豪はすごい。どんな時でも冷静で、竜の姿でも人語以外で話すことはない。もしかしたら私が知らないだけで、そういう時があるのかもしれないけれど。
グォーン、グォーン。竜の鳴き声が近づいてきた。近づいて来ているんだろうか。その声色まで分かるようになった。耳に入るのは、必死で、切羽詰まったような声。
何故だかその声を聞いて、生きたいと思った。帰りたいと思った。弱気だった心に力が入るのを感じる。少しだけ腕に力を入れて、体の向きだけでも変えようと重心を傾ける。その一瞬。
ぱき、と軽い音がして、私を支えていた木の根がその力を失った。折れた先が奈落の底に落ちていく。同じように、私も。
「あ、」
心臓が縮こまる。体に触れるものが何もなくなった。重力に従って、深い闇の中へと引き寄せられて。これで、本当に、最期。 咄嗟に掴んだのは、服の中にある首から下げた赤い竜の鱗。小さい頃に助けた竜がくれた、大切なもの。ずっと離さずにここにいた。だから手放したくなかった。
ひときわ強い風が吹いたのはその時だった。上から来たその風圧は、無慈悲にも私の落下速度を上げた。けれど、視界に入った風の源を見て目を見張る。
「爆豪、」
赤い目、赤い鱗。どうして。来てくれた。思わず、やっと涙が出た。奈落へと落ちていく私の隣を沿うように駆ける赤い竜を見て、もう大丈夫だと思った。




夢を見た。 それは一人暮らしを始めて、一週間程経った頃のこと。早朝、地響きのような轟音が鳴り響き、私の小さな家ももれなく軋んだ。地震!?それとも崖崩れ!?ベッドの中にいた私は突然の事態に飛び起き、急いで家の外に出た。そして見たのだ。
竜だ。真っ赤な竜が、私の家の前に鎮座していた。見上げるほどの巨体、正面にあるこちらを威嚇するような頭。そして、これまた赤い目が二つ、じっと私を見ている。その姿、その大きさ、何においても立派な竜だった。
その竜を前にした私はといえば、完全に蛇に睨まれた蛙の気持ちである。大きな口でもって丸呑みにされるか、その牙でもって噛み砕かれるか。どちらにしても命はない。
私がすくみあがっている間に、竜は鼻先を近づけてくる。動けない私の首筋へ、そして腰の辺りまで。
「ひ、ぇ、」
至近距離の眼光の鋭さに耐え切れず、思わず目を閉じてしまった。ほんの一瞬だった。
「おい、」
すぐ近くで男の声がしたのは、私が目を瞑った瞬間だ。目の前に竜がいた、そのはずだった。けれど声を聞いて目を開けると、もうそこに竜は居なかった。私の小さな家程もある大きな巨体が、忽然と姿を消していたのだ。その代わりに、赤い上等なマントを羽織り、首からいくつも装飾品を下げた薄金色の髪の男が一人立っている。がっしりとした体躯を少しだけ崩して立ち、街を歩いていれば目を引きそうな顔立ち。頭一つ分も背が高く、見上げれば先程の竜と同じく鋭い眼光が私を見ている。
そんな彼に、恐る恐る聞いてみる。この人しかいないのだからこの人に聞くしかない。目力が怖いけれど。
「あ、あれ?いま、竜が」
「俺だわ」
男は私の問いに間髪いれずに答えた。それから先程の竜と同じように、至近距離から赤い目で睨みつけてくる。その目は先程の竜と同じ色に見えた。なるほど、彼は竜族だったのか。
「てめぇ、俺のこと覚えてねぇんかよ」
「え。…すみません、どこかで会いました?」
「チッ…。鱗、やったろうが」
男は不機嫌そうに顔を逸らした。赤い竜の、鱗。思い当たるものが一つだけある。今でも大事に首から下げている、助けた竜の子に貰った鱗だ。そう、あの子も赤い目、赤い鱗だった。そんな、まさか。君は。
記憶の中に仕舞った懐かしい名前を呼ぶ前に、彼の方が先に口を開いた。そして続いた言葉はこうだ。
「てめぇ、こんなシケたとこ住んでんのかよ」
「…余計なお世話なんですけど」
懐かしい、また会えるなんて思ってなかった。人型になれたんだ。カッコよくなったなぁ。
そんな気持ちを上書きするように、なんとも失礼な言い草が飛んでくる。確かに私も記憶を美化してしまっているような気がするが、それにしても酷くないか?この人、何なんだ一体。私の家を貶しに来たのか。
「まぁいいわ。寝床貸せ」
「へ?え、ちょっと!?」
状況を把握できない私を押し退けて、彼はずんずんと我が家に侵入していく。さすがに一度助けた人とはいえ、男性を家に入れるのはまずい。慌てて引き止めようとするも、既に彼は寝室まで到達していた。というか私のベッドで寝ようとしていた。いや本当に何でだ。
あの時助けた竜も、勝手に私のベッドを占拠していたな。やっぱりあの子で間違いないのだろうか。
「か、勝己くん、なんだよね?」
「るせぇ、名前で呼ぶんじゃねぇわ。俺ァまだ成人してねンだよ」
「成人してないと、名前を呼んじゃいけないの?」
「そーだ。竜のしきたりだかんな」
「そうなんだ…」
最初にそう呼んだ時にも威嚇されたけれど、なるほどそういう理由があったのか。やっと言語的なコミュニケーションがとれたことで、ひとつ疑問が解決した。
しかし、腑に落ちないところが逆に増えている気もする。例えば唐突に現れて私のベッドを占拠している理由、とか。
「…爆豪」
「うん?」
「18ンなったら成人する。それまではそう呼べ」
「…えっと、じゃあ爆豪、さん」
「ンだよ」
「出てってくれませんか?」
「ア゛ァ!?」
布団を蹴り上げ、がばっと起き上がったと思ったら凄い剣幕で睨まれた。睨みたいのはこっちなんですよ。
「竜族の風習は分かんないけど、普通は人の家に勝手に入っちゃいけないんだよ」
「ケッ、人間の常識なんか知るかよ」
「そんなこと言われても、こっちだって困るし」
「うるせぇ。ぜってぇ退かねぇ」
一体何が彼を頑なにさせるのかが全くわからない。とにかく今分かることといえば、彼はもう寝入る気満々だということと、ベッドを使われてしまっては私の寝床がなくなるということだ。
…気が向いたら退いてくれるだろうか。私だってまだ眠い。ベッドのふちに座って木板のへりにもたれかかった。
もう何でもいいや、寝てしまおう。常時であれば彼が何をするか分からない状態で寝入ることはあり得ないが、本当に眠かった。
「…てめぇ、俺の鱗、まだ持ってんだろうが」
意識のふちから掬い上げられるような問いかけに、また目を開けて彼の方を見た。布団を被ってしまって姿は見えなかったけれど、もしかしてそれを確かめに来たのだろうか。いや、それだと寝床を取られる意味がわからないな。
「持ってるけど…返す?」
「いい、持っとけ。新しいのも、やる」
「…なんで?」
「そういう決まりだからだわ」
結局、“そういう決まり”の内容は全く分からないまま。その日は睡魔に負けて寝入ってしまい、朝にはもう爆豪の姿はなかった。彼のいた場所には、赤い鱗が一枚。その鱗には少しだけ細工が施されていて、彼が首から下げていた装飾品の一部と同じような見た目だった。…これは、くれたものなんだろうか。それとも、忘れていったもの?また会えたら聞いてみよう。
その「また」はかなりの頻度で実現し、どうやらあの鱗はくれたもので間違いなかったらしい。寝床のレンタル料…なんだろうか。




「かっちゃん、本当に採ってきたの!?」
「アァ!?てめぇが言ったんだろが!この草が効くってよ」
「確かに言ったけど、早すぎる……あ、だ、ダメだよ!それは熱を通さないと毒なんだから!」
「早よ言えや!!」
騒がしい。とても騒がしい。また爆豪によって私の眠りが妨げられている。今日は駄目。だってとても疲れて動けないから、寝床は貸さないよ。
…あれ、どうしてこんなに疲れたんだっけ。
「…つーかこいつ、大丈夫なんか」
「大丈夫だよ。打ち身の方は酷かったけど、骨は折れてないみたいだから。暫くは、竜に乗るのは無理かもしれないけど…」
「…そうかよ」
いつも勝ち気で傍若無人な振る舞いの彼とは思えないような声色を聞いた。爆豪もそんなしおらしいこと出来るんだねぇ、なんて。直接言ったら怒られるかな。
そういえば、二人とも誰の話をしているんだろう。私の家に度々訪ねてくるのは爆豪だけで、緑谷が居るのも珍しい。…もしかして、今夢の中なのかな?
「…ごめん。彼女が落ちたのは僕のせいだ」
「ンだそのゴメンてのは。てめぇなんかのせいであってたまるか。マジで殴んぞ。…つか、そういうのは本人に言えや」
「…そう、だね」
落ちた。
そうか、私のことか。思い出した。
薄っすらと瞼を開けると、日の光がとても眩しい。窓からのその光の中に二人が立っている。爆豪と緑谷だ。
声を掛けようと思って、声が出ないことに気付く。手を伸ばそうと思って、動けないことにも。もどかしく思っている間に二人は部屋を出て行ってしまった。
きっと二人が助けてくれたんだろう。元気になったらお礼を言わなきゃ。眩しい光を遮るように目を閉じる。

どうにか起き上がれるようになるまで、それからゆうに一週間はかかったのだけど。

(2021/3/3) <PREV▼ TOPNEXT >