自分のベッドで眠ることが出来なくなった。別に爆豪の匂いが嫌だとか、そういうことではない。というか匂いなんてしないのだから、気にならなかったのだ。あの話を聞くまでは普通に寝ていたのに。
マーキングって何だ。梅雨ちゃんの言ったことだ、信憑性は高い。あの爆豪が私のベッドを使うのは、私に匂いを移したり、ここが自分のテリトリーだと主張するため。そういうことになる。
…だめだ。意識すればするほど自分のベッドに近寄れない。匂いは分からないのに、ここに爆豪がいる気がする。彼が勝手に持ち込んだ、寝るには適さない毛皮で寝るくらいには私生活に支障が出ていた。
そもそも。そもそもだ。爆豪は本当にそういうつもりなんだろうか。ただ帰るのが面倒くさいからじゃないのか。私の家に来ない日は別の寝場所があるんだろうから、家無しというわけでもないだろうに。
「全然わからないよ…」
わかるわけない。爆豪が私を見る時の真っ直ぐな視線の意味だなんて、全然、わからない。
程なくして狩りに復帰した私は、また日銭を爆豪に7割程取られる日々に戻った。いつも通りに。些細なダメ出しをされて、勝手に食料棚を漁られて、彼の鱗を押し付けられて。そう、いつも通りになるはずだった。
「ハァ?何だてめぇ!指図すんな!」
「爆豪こそ、いつもいつも私の寝床を奪うのやめてくれない?ここは私の家なんだから、爆豪が下で寝なよ」
「ざっけんな!小間使いの癖して、竜族の俺を下に見るたぁどういうつもりだ!ア?!」
「下に見てるわけじゃないよ。寝床使うのをやめて欲しいの!」
狩りから戻り鱗と爪を換金して帰宅すると、爆豪が既に私の家に居た。大切に食べようと取っておいたパンを齧りながら、私の方をちらりとだけ見て。
呆れながらもいつも通りに過ごそうと思ったのに、爆豪がまた私の寝床で寝ようとしたから。そう、意識してしまった私は猛反発したのだ。彼からしてみれば唐突な反抗だっただろう。いつもは許可なく寝床に潜り込まれてしまうから、先んじてベッドを使うなと言ったのだ。そしてこの応酬。
「てめぇの寝床をいつ、どう使おうが俺の勝手だろうが」
「ほ、ほんと勝手だよ。大体さ、なんで、」
「あ?」
「…爆豪はなんで、私の家に来るの?」
聞くのは不安だった。でも口から出てしまった。爆豪からの答えが欲しかったのだ。
竜族の風習とか、彼の強引な態度とか、乱暴なプレゼントとか。嫌がらせの線もなくはないんじゃない?なんて思ってしまうのは、爆豪が何も言ってくれないからだ。不安なんだよ。だから、ちゃんと言って欲しかったのに。
「…いいだろ別に。意味なんかねぇわ」
ふい、と逸らされた目に、はぐらかされたとと思った。なんで言ってくれないの。やっぱり、私の自意識過剰だったんじゃないか。
「いいよ、もう。…もう、爆豪にはベッド貸さない」
「ンでだよ!」
「意味なんかないんでしょ。寝れるならどこでもいいんじゃない。じゃあ、ここでなくたって、」
不意に目線を上げると、目の前の緋色が揺れていた。思わず息を止める。今までに、見たことのないような、苦しげな顔をして。
「今更…今更だろうが。俺が何遍ここに来たと思ってんだ。クソ、嫌だったなら最初から言えばいいだろうが。なんで俺を拒まんかった」
「それは…」
「…ンで今更、嫌がっとんだ」
言い訳は出てこなかった。それこそ今更だ。今までマーキングされてたのを知って、恥ずかしくなったからやめてくれって?そんなこと言えるはずがない。まだ確信もないのに。自分一人が浮ついてるみたいで嫌だった。だから、何も言わずに俯いた。
そんな私の態度が、彼にしてみれば拒絶だと思われたらしい。は、と自嘲気味の笑い声が木霊した。
「…来週、成人の儀がある。そしたら俺は、旅に出る。ここへはもう来ねぇ」
清々すんだろ。なんて吐き捨てた声が、あまりにも辛そうで。違うよ、と言いたかったのに、爆豪に告げられた言葉が私の思考を鈍らせた。
ここにもう来ないって、何。旅に出る?私、聞いてないよ。なんでそんな顔するの。傷ついたような表情、初めて見た。
足早に私の隣を通り過ぎて出て行く彼を止めることも出来なかった。必死に追い縋って、でも遅かった。すぐさま飛び立って行く竜の姿が、苦しむような咆哮が、ずっと心に刺さったまま。
馬鹿。馬鹿だ。本当に勝手だ。私の心を好きなだけ乱して、自分は与えるだけ与えて、いきなりもう会わないだなんて。
…嘘、嫌だよ。もう会わないなんて、いやだ。私はずっと爆豪と一緒に飛びたいと思っていたのに、あなたはそうじゃなかったの。旅に出るなんて、一度も言ったことないじゃない。初めて海に連れて行ってくれた時、はるか向こうを見ていた爆豪はもう決めていたんだろうか。じゃあその時に言ってくれたら、そしたら、私は。
初めて、爆豪は私に鱗を渡さずに帰った。飛び立ってから一度も振り返ってくれないまま、赤い竜は空へ消えていく。
それでも、また一度くらいは顔を見せてくれるだろうと高をくくっていたのだ。その時までは。
次の日も、その次の日も、爆豪は現れなかった。本気なんだ。彼は私を置いて、行ってしまおうとしている。そう思ったら気が気じゃなくなった。彼のくれた鱗を握りしめて、街中を探したりもした。けれど、見つかる気配すらない。
もし竜族の集落の方に居るのならお手上げだ。切り立った山の上など、ただの人間の私が数日で辿り着ける場所ではない。
こんな別れ方をしたかったわけじゃない。ただ彼を意識してしまって胸が苦しいから、やめてと言っただけなのに。
自分の家に戻って、人の気配がないことに落胆する。真っ暗な部屋に明かりを灯すと、やはり誰もいない。
部屋の隅にある棚に置いた箱に手を伸ばした。その大切な開けば、爆豪が押し付けていった綺麗な赤い竜の鱗が詰まっている。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
テーブルの上に転がる赤い玉。宝箱に大切にしまっておいたものを、思い出すように一つ一つ丁寧に数えた。
その数だけ、爆豪は私に心を見せようとしてくれていたんだろうか。一方的に贈られるものに対して、私は何も返していない。
頻度が高ければ毎日、間を開けるときは月に一度、彼はここへやってきた。その度に不遜な態度で私を呆れさせ、勝手に家を漁り、何事もなかったように欠伸をして…まるで自分の家みたいに振る舞って。私は、彼のことをずっと嵐だと思っていた。勝手に私のテリトリーに踏み入って、去っていくだけの。
そんな乱暴な毎日が、私はわりと好きだった。平穏を破る地響きが、ドアを蹴破る無礼者が、私の日常に平凡ではない時間を与えていた。
爆豪がいなくなってしまったら、もうお皿を割られる心配もない。食料も勝手に食べられたりしないし、ふかふかのベッドは私のものになる。踏まれて靴跡をつけられることも、鍵をかけたはずの家に不法に入られることもなくなる。
けれど、爆豪がいない。いなくなってしまう。
久しぶりに自分のベッドに潜り込む。彼の気配は感じられなくて、諦めるように目を閉じた。
緑谷が家を訪ねてきたのは、それから数日後のこと。顔を合わせて、少しだけ顔色を心配された。そんなにひどい顔だったのか。ここ数日無気力で、鏡すら見ていない。竜の小間使いという仕事しかしていなかった私は、現在家に引きこもっていた。
「用事があるのは僕じゃないんだけど…話だけ聞いてもらえないかな」
「いいよ。どうせ暇だしね」
申し訳なさそうに彼が引き連れてきたのは、爆豪の友人だという切島という竜族だった。3人テーブルにつくと、切島はそわそわしたように口を開いた。
「今日ここに来たのは他でもなく、爆豪のことなんだけどよ」
友人だと名乗り出た時から、なんとなく察してはいた。けれど、これから旅に出るという彼について私に用があるとは何だろう。静かに言葉を待つと、意を決したように切島が言う。
「あいつ何でも出来るくせに、変なとこで不器用でさ。あんたにもきっと色々苦労かけてたと思う。ダチとして謝るぜ、すまねぇ」
「ちょ、ちょっと待って。私は別に…」
「そんでもって、こっからが本題でよ」
畳み掛けるような押しの強さはさすが爆豪の友人だけある。切実なる声色に思わず閉口するしかなかった。
「俺が口出ししていい問題じゃねぇのは分かってんだけどさ。ちょっと前からあからさまに凹んでんだよ、アイツ。あんた何か知らねぇか?」
凹んでる。爆豪が?
「私は…何も。爆豪も先週来たっきり、ここには来ないって言ってたし。小間使いとして、もうお役御免なのかも」
自分で言葉にして、こんなに切なくなるなんて思わなかった。爆豪の背に乗るために頑張ってきたのに、今はとても虚しいだけで。膝に置いた手を握りしめて、喉に迫り上がる苦しみを耐えるしかなかった。
その時、黙って聞いていた緑谷が身を乗り出してきた。
「ちょ、ちょっと待って。いくつか聞いてもいいかな」
「…うん」
「かっちゃんは…君をパートナーだと認めてたんだよね?」
「さぁ…よくダメ出しされてたから、もっと頑張らなきゃとは思ってたけど。結局、褒められたことは一度もなかったから、違うと思うよ」
私が自信なく呟けば、対面に座っていた二人が二人とも額に手を当てて天を仰いだ。ごめんなさいね、期待に応えられなくて。
「で…でもよ、爆豪に鱗貰ったんだよな?」
「それもたくさん貰ったけど…どういう意味なのかは本人からは聞いてないよ。聞いても教えてくれなかったし。うちに来るのだって、意味なんかないって言ってたし」
「バクゴーの奴、自爆してんじゃねぇか…」
「なに?」
「いやこっちの話…でもないな」
もう一度聞き返そうかと思うより先に、切島が立ち上がった。何のアドバイスも出来なかったけれど、せめて見送りだけはしよう。顔を上げた先で、切島が笑いながら言った。
「俺、今から竜族の集落に帰るんだけどよ。一緒に来るか?」
人間では険しい山も、彼らならひとっ飛びだ。
もう一度、爆豪に会える。その手を取らない理由はない。本当にこれで最後かもしれない。けれど、せめて自分の納得のいく別れをしたかった。それが独りよがりだったとしても、爆豪のためにならないとしても。今まで散々受け取ったものを、ひとつでも返したかった。