「あっ、もうこんな時間…!?」
時計を見て慌ててデスクを片付け始める。時刻は二十三時をゆうに回っていた。クリーンデスクなんて知ったこっちゃない。私が後でわかれば良いのだ。バラバラになっていた資料を粗方積み上げて、同僚にお先!と声をかけてから会社を飛び出した。そのまま一目散に駅へと猛ダッシュをかます。やばい、やばい、終電だ!
このところ仕事が立て込んでいて、資料を纏める残業の毎日。けれど今日の分でようやく区切りがつきそうだ。明日は早く帰ろう。帰って、美味しいものを食べて、だらだらしよう。
どうにか間に合った電車の中で一息ついて、今日の夕飯のことを考える。何かお腹に入れるまでは眠れそうもない。それくらいお腹が空いていた。
最寄りの駅からの通りには煌々と街灯が並んでいる。最近LEDに置き換えられ、前より随分と明るくなったと思う。それでももう十分に遅い時間、足早にマンションへと向かった。時間が時間だけに人通りは殆どない。民家も灯のついていない家ばかり。足音だって私の分だけ、のはずなのに。
(なんか、後ろに人が居る、ような)
気にしないようにしようと必死に努力はした。きっとコンビニに行く人だ、とか、聞き間違いだろうとか。けれど気になってしまった以上、意識はそちらに向く。私の硬い靴底のあとに、僅かに歩道の砂利を踏む音がする、ような。
…じゃない。やっぱり人が居る。私の後ろに。はっきりと聞こえたのは、靴底がアスファルトを擦る音だ。
どうしよう。そんな治安の悪いところじゃないし、変な人じゃないよね。たまたま同じ通りを歩いてるだけだよね。変質者だと決めつけるなんて失礼だよ。
でも、もし、ただの通行人じゃなかったらどうし…
「おい」
「わあぁぁ!!」
不意に聞こえた背後からの声に、咄嗟に手が出た。それほど混乱していたのだ。肩にかけていた鞄を、声のした方へ思い切り振りかぶる。革の鞄でも角はいくらか硬くて、相手も当たったら怯むはずだ。そしたら、マンションまで走って、逃げて、
「おい、」
あぁ、もし追いつかれたら、ど、どうしようか。足には自信がない。あぁ、どうして私は咄嗟に目を瞑ってしまったんだ。いやだって目を見て発動する系の個性の人だったら怖いから。あぁ、あぁ、どうしよう。こんな時間に誰かが通りかかってくれる可能性は低い。だったら、
「おい、落ち着け。目ェ開けろ」
「…?」
なんだか聞いたことのある声だな。その主は落ち着いた声色で私を諭している。大丈夫だ、とでも言うように。
恐る恐る瞼を上げると、そこにいたのは。
「ば、爆豪、さん」
「…おう」
思い切り振りかぶった鞄を、片手で掴んだ爆豪さんがそこにいた。黒い闇に溶け込むような黒いパーカーに、オレンジのライン。彼の方もどこからかの帰りなのか、デイバッグを身につけていた。
ふと力が抜け、鞄が重力に従って落ちる。あぁ、よかった。とりあえず話のできる人物であったことに安堵した。
しかし、咄嗟とはいえ相手に危害を加えようとしてしまったことに今更ながらに血の気が引いた。それも、よりにもよって隣人に。
「す、すみません!私、思い切りぶつけてしまって…!けっ、怪我なかったですか!」
「別に」
「ほんと、びっくりした…ごめんなさい!」
「だから、いい。俺の方も当っちゃいねぇ」
爆豪さんはそう言ってくれるけれど、ビビりすぎていた自分が恥ずかしくて何度も謝った。爆豪さんは面倒くさそうに息を吐き出す。
「めんどくせぇ、もういいっつってんだろ。それよかはよ帰って飯食いてぇんだわ」
「そ、そうですね。お邪魔してしまってすみません」
爆豪さんに道をあけるように歩道の隅に寄った。彼は空いた道を歩き始め、しかししばらく行ったところで立ち止まった。
「…おい、ちゃんとついて来いよ」
「えっ?」
「こえぇんだろが。あんな取り乱すくれェによ」
「えっ!いや、それは、」
「いいから、ついて来い。どうせ帰るとこ同じだろうが」
そう言って、爆豪さんは一人すたすたと歩いて行ってしまう。私も置いていかれないように慌ててそのあとをついていった。
不思議だ。さっきまでの心細さは嘘のように消え、少しだけ丸まった背が見えるだけでこんなにも安心する。ちゃんと声をかけてついて来いって言ってくれたし。やっぱり、優しい。
「あんた、こんな帰るの遅いんか」
夜があまりにも静かだったから、振り向かずに放たれた問いは素直に耳に届いた。
「いえ、今日は仕事が立て込んでたので」
「フーン。そりゃごくろーさん」
おざなりだけど、労りであろう言葉が身にしみる。爆豪さんも、お疲れ様です。そう背に投げ掛ければ、彼の方も「おー」と返事をしてくれた。それがなんだか、たまらなく嬉しかった。
「あの、ありがとうございます」
「ア?」
「今日は特に遅かったから、さっきまですごく心細かったんです。爆豪さんがいてくれて良かったぁ」
「…別に。俺でなくても管轄のヒーローが居るだろうが」
「それもそうですね。最近、治安が良くなったのはそのヒーローのおかげかも」
この地域のヒーロー事務所に新しいヒーローが来たとマンションの住人たちが話していた。なんでも名の知れたヒーローらしいのだが、興味のない私は聞き耳をたてるようなこともせず、買い物に出かけたのを覚えている。
少し前まで不審者情報がマンションの掲示板に貼り出されているようなこともたまにあったが、最近では全く見ることもなくなった。噂のヒーローの抑止力というやつだろうか。
「ヒーロー」
「うん?」
「名前、知らねぇんかよ」
唐突に、爆豪さんからの問い。彼の方は興味があるのだろうか。けれど、残念ながら私はその答えを持っていないのだ。
「うう〜ん…会社の人なら詳しいんですけど。ごめんなさい、分からないです」
「…管轄の奴じゃなくても、名前知ってる奴とかいねぇのかよ」
「えーと、この前の紅白がショートっていうのは覚えましたね。まぁ、顔は見てもわからないと思うんですけど……。あと、なんだっけ、皆んながよく言ってる…うーん、オールマイトに似てる名前の…」
「…大・爆・殺・神」
「えっ?だい…?いや、そんな名前でしたっけ…?」
「…ダイナマイト」
「あっ、なんかそんな名前だった気がしますね」
「…マジで興味ねぇんだな」
「いや、だって、会ったことないですし…。会ったとしても話もできないでしょうし」
「わかんねぇだろ。こんなくだらねぇ話するかもしんねぇし」
「えぇ…くだらなくはないですよ。爆豪さんと話すの、結構楽しいです」
「…そうかよ」
そんな話を続けながら、私たちはマンションへと向かう。着いた時にはもう日付は変わっていて、隣の部屋の爆豪さんも眠そうに鍵を取り出していた。
「おやすみなさい」
「ン、」
自分の部屋に入った途端、思い出したようにお腹が鳴った。うっ…良かった、爆豪さんの前じゃなくて。
「昨日のダイナマイトのゲスト番組見た?」
「見た見た見た。あれね!」
今日も今日とて、同僚たちは声を上げて推しの話に花を咲かせている。元気であるのはなんとも羨ましいことではある。私も私で昼ごはんに作ってきたお稲荷を食べるのに夢中なわけだが。うーん、やっぱりゴマが入ってる方が断然美味しいな。
「『俺のこと知らねぇ奴に会った。腹立つからぜってぇ覚えさせたる』って宣戦布告!はぁ、もー、カッコよすぎて一回記憶喪失になりたかったわ…」
「分かる。ダイナマイトに宣戦布告されたい」
いや、私は分からないな…。稲荷をひとつ頬張って咀嚼している間にも、彼女らの興奮は冷めやらず、昼ごはんそっちのけで話に夢中だ。
さて、私はお稲荷をもう一つ、と箸を伸ばしかけた時。不意に同僚の視線がこちらに向いた。
「その宣戦布告されてる側は多分こんな感じなんだろうね」
「あー、何というか…」
いや、何なのよ。二人の目は私を向いている。つまり、私のことを言いたいのだろう。だから、興味ないんだから仕方ないでしょうに。宣戦布告でも何でもしててくださいよ。私には関係ないことですし。
「あっ、そだ。あんたんとこのマンション、近くに中華の店あったじゃない?」
私を見ていた同僚の一人が、思いついたように声を上げた。中華の店、というのは同僚も連れて行ったことのある店だ。あの、爆豪さんと一緒に行ったところ。
「うん。よく行ってるよ」
「そこね、最近ダイナマイトが新メニューを提案したとかでめっちゃ人気なの。私も行ってみたいんだけど、通り掛かったらどのくらい混んでるか見てきてくんない?」
「別に…いいけど」
そんな会話を同僚とした日の夕方のこと。ちょうどその店の近くを通り掛かった私は、店の前に並ぶ女性客の列を見た。それも数人ではない。両手でも数え切れないほどに人が列をなしている。
「うわ、マジか…」
同僚に言われた通り、例のヒーローのメニューのせいだろう。列整理に新しいバイトも雇ったらしく、若い女の子が店のエプロンをつけて声を張り上げていた。
近くにきたからついでに夕飯食べていこう、という気軽さは微塵もなくなってしまった。わりと硬派な店だったはずなのに、男性客の姿も見えない。その異様な雰囲気に、近づくことすら躊躇してしまう。
折角爆豪さんが気に入ってくれたお店だったのにな。一緒にご飯を食べたあの晩を思い出す。二人揃ってはらぺこですと張り合うように腹を鳴らし、越してきて隣人に唐突に誘いをかけて。1人だけでない夕飯など久しぶりだったから、ついつい色々話してしまった。爆豪さんは面倒くさそうな顔をしつつも、ちゃんと話を聞いてくれた。空腹だけじゃなく、いろんなものが満たされたのだ。
帰路に戻りつつ、同僚に数十人は並んでるよ、と連絡を入れた。既読になったすぐ後に『それくらいなら全然待てる!ありがとー!』と強気のメッセージが返ってくる。なんとも逞しい返答に苦笑いしつつ、帰路についた。
ピンポン。
夕飯を終えた頃、チャイムが鳴った。はて、一体誰だろう。ソファから立ち上がってドアホンに近づこうとすると、またピンポンと鳴る。せっかちな人だな。
ピンポン、ピンポン、ピン、ピン、ピン。
リズミカルに鳴らされるチャイムに、ドアホンに伸びかけた手も止まる。一体何なんだ。悪戯か?少しだけ怖くなって、ドアホンを確認するのも躊躇った。
か、怪奇現象…じゃないよね?オカルト系は信じていないから、人であることを願いたい。そうして様子を見ていると。
「バクゴ〜!遊びに来たぜ〜!」
ドアの向こうから男の人の声。よかった、やっぱり人だった。
バクゴー、って、もしかして爆豪さん?だったらお隣だ。その間違いを訂正しなくては。
とは思ったが、声の主はどうやらかなり酔っ払いのご様子。鳴り止まないチャイムがその証拠だ。ドア越しとはいえ、穏便に対処できるだろうか。いや、しなければ帰っていただけないかもしれないし。爆豪さん、今家にいるのかな。気づいてくれると有り難いんだけど…。
「なー、ほんとにここか?角部屋って言ってたろ」
「そん時メモっとけよ、全く」
また別の声がする。二人目、三人目だ。ドアの向こうは一人とばかり思っていたが、どうやら複数人いるらしい。こうなるともう居留守でいいかな、という気持ちになってくる。酔っている見知らぬ男たちに対応しなければいけない義理はない。しかし鳴り止まないチャイムだけはどうにかしてほしい。
あぁ、早く間違いに気付いてくれないかな。爆豪さんはお隣ですよ。諦めにも似た気持ちで祈った。
しばらくピンポンは止まなかったが、ドアの外で「ゴン!」と鈍い音がした。途端、鳴り響いていたチャイムは途絶え、しんと静まり返ってしまう。えっ、何?どうなったの?恐る恐る、気になってドアの方へ近づくと、何やら聞き慣れた声が。
「るっせんだよてめぇら、俺んちは隣だわ!」
「うわ、マジかよ!」
「おい、そこのアホ面部屋に運んどけ」
どうやら隣人が気づいてくれたようだった。良かった。鈍い音が何なのかは気になったが、爆豪さんが穏便にまとめてくれたのだろう。ほっと胸を撫で下ろすと、控えめなチャイムが一回。きっと爆豪さんだ。さっきと違って、ドアホンに伸びる手は迷わなかった。
「爆豪さん。こ、こんばんは」
「…俺んとこのバカどもが迷惑かけた」
画面越しにバツが悪そうに顔を顰めた爆豪さんが映る。それを見ただけで、何かホッとしてしまった。状況が状況なだけに、こちらも苦笑いになってしまったのは許して欲しい。
「いえ、賑やかですね。お友達ですか?」
「まぁ…そんなモンだ」
「爆豪さんが来てくれて良かったです。ずっと鳴らされるのはちょっと…。今夜眠れなくなっちゃいますし」
「…ちゃんと言い聞かせとく」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
「おう」
はぁ。彼の姿が見えなくなってから、途端に気が抜ける。しゃがみこんで、大きく息を吐いて。心臓がばくばくと音を立てて、緊張していたことを主張してきた。
うん、怖かった。本当に。
いくらドア越しとはいえ、知らない複数の男の人を相手にするのは怖い。酔っているのだからなおのことだ。怒鳴られるかもしれないし、ドアを蹴られるかもしれない。そうなったらもう、自分ではどうにもならない。
自分でも驚くほど、無意識に爆豪さんに助けを求めてしまっていた。ただの隣人なのに。数日前、深夜の夜道でも助けてもらったばかりだ。私が鈍臭い女だから見捨てておけなかっただけだろうけど、途中で放ったりはせず、最後までキッチリとやり遂げてくれる。
同僚たちは世間を賑わすヒーローに夢中だけど、私にとっては爆豪さんみたいな人の方がいい。言葉使いは少し乱暴だけどこちらを伺い気遣ってくれるし、何でもない話も聞いていないようでちゃんと聞いてくれる。みんなのヒーローだったら、たった一人に親身になんてできないだろうし。
とまぁ、こんなことを考えていると、当初の普通の隣人付き合いはもうとっくに飛び越してしまっている気がする。依存しすぎだ。爆豪さんにご迷惑をかけないようにしなければ。具体案は特になかったが、何かにつけて爆豪さんに助けて欲しいと思ってしまうのは良くない、よな。うん、反省しよう。
そうだ。この間の分も含めて、彼に何かお礼をしなければ。助けてもらった分も、ネイルの分だって、私は何も返してないじゃないか。思い出してしまった途端に焦りが出た。明日会社帰りに何か見て回ろう。
布団に入って贈り物をあれこれと悩む。ふと思い出したのは、辛いものを食べている時の彼の顔だ。中華系の辛いものなら大丈夫、かな。検索するスマホの画面が薄暗くなった一瞬、自分の顔が映った。今まで見たことがないくらい、とても楽しそうな顔が。
…違うよ。爆豪さんは、そういうのじゃないからね。でも、彼が喜んでくれたらいいな、と思ったのは本当です。